2024年4月度のコメントを表示します。
日 付:2024-04-01 |
投稿者:平川柳 |
タイトル:柳樽寺川柳会の「革新川柳」の作風 |
岩原さんのご質問「井上剣花坊の門下というと、信子さんや鶴子さん、後は勝目テルさんが参加そして鶴彬、これくらいしか知らないのですが、他の方の句風ってどんなだったのでしょうか。」にお答えします。
井上剣花坊の創設した柳樽寺川柳会は機関誌『川柳』『大正川柳』『川柳人』と元号が変わるごとに作風が大きく変わっていきます。来年は「川柳人」が100年目を迎えます。明治時代は川柳の「三要素」の内の「滑稽味」を川柳の核に置き、明治時代の新風俗を描いた「新短詩」を提唱しましたが、大正時代の「大正川柳」の時代になると、アメリカの民衆詩人であるウオルト・ホイットマンの「民衆詩」を信奉し、「民衆芸術」としての「新短詩」の川柳を提唱し、「川柳」は「一呼吸詩」であるを提唱します。この時代の柳樽寺川柳会には「新興川柳」の生みの親・田中五呂八がおり、「生命派」の「抒情川柳」を目指し、三笠しづ子、中島國夫、白石朝太郎、近藤十四子などが活躍し、柳樽寺川柳会から「自由律川柳」や「内在律」の川柳が登場します。昭和の時代になると、剣花坊は「川柳人」で川柳は「プロレタリア・ポエム」であると提唱し、「民衆芸術」論を発展させます。この剣花坊の提唱を受け継いだのが、鶴彬であり、大石鶴子さんであり、現在の「川柳人」の主宰者である佐藤岳俊さんです。 |
日 付:2024-04-01 |
投稿者:真鍋心平太 |
タイトル:柳樽寺川柳会の「革新川柳」の作風 を拝見して |
柳樽寺川柳会は機関誌『川柳』『大正川柳』『川柳人』と
元号が変わるごとに作風が大きく変わっていきます。 とあり、流れが良く分かりました。 大正川柳が影響を受けたとあるウォルト・ホイットマンの 「開拓者」という詩を高校のときに先生が朗読されたときの ことを今も覚えています。詩はほとんど覚えていないのですが 最初の「過去をすべて捨ててしまい」というフレーズと 最後の「おお、開拓者!開拓者よ!」というフレーズと 懐かしい先生の声だけを今も覚えています。 これがプロレタリア・ポエムである川柳に受け継がれていた のだと知って川柳をやっていて良かったと今感銘を覚えています。 平 川柳様 素晴らしいコメントをありがとうございました。 |
日 付:2024-04-01 |
投稿者:平川柳 |
タイトル:ウオルト・ホイットマンの『草の葉』の詩集 |
真鍋心平太さんのコメント拝見しました。
「大正川柳が影響を受けたとあるウォルト・ホイットマンの「開拓者」という詩を高校のときに先生が朗読されたときのことを今も覚えています。詩はほとんど覚えていないのですが最初の「過去をすべて捨ててしまい」というフレーズと最後の「おお、開拓者!開拓者よ!」というフレーズと懐かしい先生の声だけを今も覚えてす。」とのこと。大正時代はホイットマン生誕100年の年であり、ホイットマンのブームがおこり、ホイットマンの代表的な詩集『草の葉』は多くの詩人たちが翻訳していますが、中でも小説家の有島武郎の翻訳は大変、良くできた翻訳です。是非、機会があれば、読んでみてください。 |
日 付:2024-04-01 |
投稿者:岩原一角 |
タイトル:平川柳さん、ありがとうございます。 |
井上剣花坊の発展の経緯がよくわかりました。長州藩士族でありながらよくプロレタリアの世界を理解されたものですね。
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日 付:2024-04-24 |
投稿者:真鍋心平太 |
タイトル:「現代川柳の詩学」内在律を読んで |
今月の「現代川柳の詩学」内在律についてを興味深く
拝見しました。 川柳「内在律は『判断に訴え、知性を振動させる、 声なき声のリズム』であり『古川柳が詩として』俳句と 『対抗し得るのは、こうした内在律の面においてである」 という記述に心が震えました。 昨年拙句「ビー玉の中の少年夏休み」について 「詩には外在律と内在律といいうものがある。そのうち 定型を守るものが外在律で川柳の多くは外在律で書かれて いるが、この句は内在律で書かれている。 したがって音声に出して披講するときには「ビー玉の中の少年」 でいったん止まり、間をあけて「夏休み」と披講するのである。 そしてこれにより「ビー玉の中の少年」という語句と対比される 「夏休み」に特別なイメージが醸し出されることになる。 さらにこの内在律が川柳のうがちを生み出す手法のひとつで あると考えいる。」 という評を頂いたことが蘇り、 「内在律」と「うがち」の表現について自分なりに研究してみたい と考えて居ります。 今までは漫然と作句するだけでしたが、こうした気構えで作句する ことは大いに自分の作句力を高めるのではないかとこの連載の 有意義さをあらためて噛みしめて居ります。 今後とも宜しくお願いします。 |
日 付:2024-04-25 |
投稿者:平川柳 |
タイトル:短句「山月記読む」 |
真鍋心平太様
短句「山月記読む」のご感想ありがとうございました。中島敦の『山月記』の小説を背景に「暁の虎」が、この小説を読むという川柳文芸の「穿(うが)ち」の視点で書いてみました。心平太さんの感想は作者の意図をピタリと指摘されており、とても嬉しく拝見しました。 |
日 付:2024-04-25 |
投稿者:岩原一角 |
タイトル:うがち、なるほど |
うがちらしい例として、わが平和川柳研究会の「20億盗られて気付かぬ暮らししたい 英人」をアップしておきます。
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日 付:2024-04-25 |
投稿者:平川柳 |
タイトル:「古川柳」の内在律と穿ちの融合 |
真鍋 心平太 様
いつもコメントありがとうございます。 柄井川柳選の『誹風 柳多留』の「古川柳」では「内在律」と「穿ち」の組み合わせで独自の「川柳風」の選句方式を生み出しました。 「初世川柳宗家派川柳」の東京川柳会ではこの「内在律」と「穿ち」の視点を融合した口語発想の一行短詩を探究しています。「内在律」は江戸時代の会話体を一行詩形の中に取り入れることによって発展していき、それは現代川柳にも受け継がれています。 |
日 付:2024-04-27 |
投稿者:武智三成 |
タイトル:短句について |
短句の選者を担当しました。武智三成です。二度目になります。
短句の源は江戸時代、慶紀逸の「武玉川」になります。大阪では 短句と称してバイブル的存在です。それは下句の三四のリズムが ぴったり当てはまるからでしょうか!ことに「津波の町の揃う 命日」という句が心情にぴったり合うからかもしれません。 下句の心情に挑選してください。いい自由吟が花盛りですが まだまだ奥行き深いのではないかと思っています。 これは私達の師久保田元紀師が長句短句の短句の心情を練り 直したものです。十四字の変遷はありましたが現代に残り得る ものと思っています。この度もいい句が沢山ありました。 また次回お会いしましよう。 |
日 付:2024-04-27 |
投稿者:平川柳 |
タイトル:三成さんの「短句」についてを読んで |
三成さんの「短句の源は江戸時代、慶紀逸の『武玉川』になります。大阪では短句と称してバイブル的存在です。句の三四のリズムがぴったり当てはまるからでしょうか!」を読みました。柄井川柳が「川柳」という短詩文芸を創始した時、呉稜軒可有編『誹風 柳多留』(初篇)が1765(明和2)年5月に刊行され、柄井川柳選の選句集『誹風 柳多留』は「川柳のバイブル」と呼ばれ、研究者はこれを「古川柳」と呼び、すぐれた研究書が刊行されています。その中には十四世根岸川柳の『古川柳辞典』があります。私ども「川柳宗家派川柳」の流れを汲む東京川柳会はこの柄井川柳の『誹風 柳多留』の前句付の「長句」(五七五)の「穿ち」と慶紀逸の『武玉川』の「短句」(七七)の「抒情」を融合した現代川柳を70年の歳月を越え、探究しています。こうした中で十四世川柳宗家 根岸川柳が創案したのが「連句」の「長句」(五七五)と「短句」(七七)を鎖のようにイメージの連鎖でつないでいく「連唱」という独自の川柳形式です。根岸川柳は最初、高弟(後の十六世青田川柳と後の17世石川川柳)たちと「半歌仙」の形式で「連唱」を創作しましたが、その後、十八世川柳を嗣号した平 川柳が歌仙形式を用いた「連唱」を提唱し、現在に至っています。歌仙形式は四部に構成されます。まず「発句」(五七五)の「長句」で始まり、次に脇句の「短句」(七七)が続き、それが交互に連なるのが「おもて六句」です。第2部は連句で「うら十二句」にあたる「破1‐破の序」です。これは展開部分です。さらに「名残のおもて十二句」は「破の2‐破の破」です。そして第4部は「名残のうら六句で「急」にあたります。「急」の結句は「挙句(あげく)」の「短句」(七七)で終わります。「川柳天守閣」の真鍋心平太さんは十四世 根岸川柳が創案したこの「連唱」の形式と「フォト川柳」を組み合わせた電子ブックによる連唱フォト川柳句集『春夏秋冬』を制作中です。三成さんの句集『人生とは牛歩』から長句と短句の36句を歌仙形式の「連唱」で作られています。これは川柳界初の「連唱フォト川柳句集」です。完成される日も近いと思います。楽しみにしています。
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日 付:2024-04-27 |
投稿者:真鍋心平太 |
タイトル:「連唱」の神髄 |
三成さんが短句の「心情」についてコメントされたのに対して
平川柳さんsんが以下のように補足されました。 東京川柳会はこの柄井川柳の『誹風 柳多留』の前句付の「 長句」(五七五)の「穿ち」と慶紀逸の『武玉川』の「短句」 (七七)の「抒情」を融合した現代川柳を70年の歳月を越え、 探究しています。こうした中で十四世川柳宗家 根岸川柳が 創案したのが「連句」の「長句」(五七五)と「短句」(七七)を 鎖のようにイメージの連鎖でつないでいく「連唱」という 独自の川柳形式です。 「長句の穿ちー短句の抒情」 の連鎖。 「連唱」の神髄がここに記されています。川柳の3要素として「穿ち」 「面白味」「軽み」と言われますが、連唱はそれに深みを加えるように 思います。川柳の奥深さに感じ入るばかりです。ますます川柳が 面白くなってきました。 平 川柳様 貴重なコメントをありがとうございます。 |
日 付:2024-04-27 |
投稿者:平川柳 |
タイトル:短句のバイブル慶紀逸の『武玉川』を読む |
私は大学生の頃『抒情文芸』という総合文芸雑誌の「一行詩」欄(選者:一行詩人で現代川柳評論家・山村祐)に投稿しておりました。この欄の投稿者には東京の現代川柳作家・
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日 付:2024-04-27 |
投稿者:平川柳 |
タイトル:慶紀逸の『誹諧 武玉川』の抒情短句について |
私は大学生の頃『抒情文芸』という総合文芸雑誌の「一行詩」欄(選者:一行詩人で現代川柳評論家・山村祐)に投稿しておりました。この欄の投稿者には東京の現代川柳作家・
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日 付:2024-04-28 |
投稿者:平川柳 |
タイトル:川柳における「うがち」の文芸性 |
明治時代以降、柄井川柳の選句した『誹風 柳多留』に収録されている作品を「古川柳」と呼び、明治以降の「新短詩」を「川柳中興の祖」である井上剣花坊は「新川柳」と名付けました。そしてこの明治時代に「古川柳」の研究者たちはその文芸性を「うが(穿)ち」「滑稽性」「軽味」の「三要素」にあるとしましたが、俳諧史の研究者である京都大学教授の穎原退蔵博士は戦後の1946(昭和21)年に「川柳の文芸性」と題した論文を発表し、「古川柳」の特色は「穿ち」にあり、「滑稽性」や「軽味」は「穿ち」に附随したものに過ぎないと指摘しました。さらに穎原退蔵博士は「古川柳」は「穿ち」の文芸であり、この特性に深みと「余情」が加われば、この「短詩」は、より高い文芸性を獲得するだろうと結論づけました。この「穿ち」の語は「穿つ」という「穴をあける」という意味の動詞が由来で「表面に見えないものを掘り出す」という意味になり、「人情の機微を巧みに言いあらわす」意味になりました。この「穿ち」は川柳の文芸精神をあらわしており、川柳作家はこの視点で作句することによって<批評精神>をもった<諷刺性>のある短詩を誕生させました。例えば『誹風 柳多留』(初篇)の「役人の子はにぎにぎをよく覚え」はその好例です。この前句は「運のよいこと、運のよいこと」です。
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日 付:2024-04-28 |
投稿者:平川柳 |
タイトル:『誹諧 武玉川』の短句の抒情性について |
『誹風 柳多留』(初篇)の「序」で編者の呉稜軒可有は「当世誹風の余情」という語を用いていますが、この「当世誹風の余情」とは慶紀逸の『誹諧 武玉川』の「余情」を意味しています。つまり柄井川柳の選句集『誹風 柳多留』は慶紀逸の『誹諧 武玉川』の「余情」を積極的に取り入れたこと「誹風」の語で明示していると考えられます。江戸座誹諧の俳人たちは「俳諧」という文字を使わず、「誹諧」の文字を使い、松尾芭蕉の「自然諷詠」の「俳諧」ではなく、慶紀逸の「都会趣味」の<自由精神>に基づいた「誹諧」を求めました。
『誹諧 武玉川』では前句の「五七五」につけ句の「短句」(七七)を独立句として扱ったところに大きな特色があります。 また松尾芭蕉の「蕉風俳諧」と異なり、慶紀逸の『武玉川』は「俗談平話」の「人事句」が多く、「情」を主とした「軽快な諧謔性」が基調となっています。例えば、次のような「短句」があります。「恋しい時は猫を抱きあげ」これは『誹諧 武玉川』(二篇)に収録されています。この「短句」には娘の恋心が簡潔に表現されています。また同じ『誹諧 武玉川』(二篇)には、次のような「短句」が収録されています。「石の地蔵の清い唇」この「唇」という表現に惹かれました。意表を突く斬新な表現です。早稲田大学の大学院生の頃、この「短句」を読んで、すっかり『武玉川』の「短句」の「抒情句」にほれ込んでしまいました。忘れられない『武玉川』の「短句」です。 |
日 付:2024-04-28 |
投稿者:平川柳 |
タイトル:¹一行詩から現代川柳へ(平川柳) |
私は大学生の頃『抒情文芸』という総合文芸雑誌の「一行詩」欄(選者:一行詩人で現代川柳評論家・山村祐)に18歳より投稿しておりました。この欄には東京の現代川柳作家・吉田健治さんと北海道の川柳作家・細川不凍さんが常連の投稿者でした。吉田健治さんは山村祐師の直弟子で山村祐師の主宰された「森林の会」の中心的な存在でもありました。健治さんも「一行詩」から、やがて現代川柳に転向され、東京川柳会や中村冨二の主宰する現代川柳結社にも参加していました。
私は大学生の4年間、「一行詩人」として山村祐師の下で『抒情文芸』の投稿を続けていましたが、早稲田大学の大学院の入学が決まった年に山村祐師に報告すると、山村祐師からお手紙を頂き、高田馬場駅の近くで「森林の会」という一行詩人、現代川柳作家、現代俳句作家の交流句会を開催しているので、是非、遊びにいらっしゃいといわれ、はじめて「森林の会」に参加しました。そこで吉田健治さんをはじめ、東京川柳会の当時の主宰、十五世脇屋川柳(旧号:未完子)、後の十六世青田川柳(旧号:煙眉)、後の十七世石川川柳(旧号:蝶平)と出会いました。この最初の句会で、山村祐師が東京川柳会を創始した十四世根岸川柳の直弟子だと知り、東京川柳会の現代川柳に強い関心を抱くようにようになり、早速、翌月に東京川柳会に参加し、現代川柳を青田煙眉師に、柄井川柳の「古川柳」を十五世脇田川柳師に学びました。特に十五世脇屋川柳師は例会終了後、毎回、私のために「古川柳」の講義をしてくださり、『誹風 柳多留』の歴史や句の解釈を大変、丁寧に教えてくださいました。さらに川柳宗家の変遷についても詳しく講義してくれました。テキストは岩波文庫の千葉治校訂の『初代川柳選句集』(上・下)でした。このテキストが終わると、次に同じ岩波文庫の山澤英雄校訂の『誹諧 武玉川』(一・二)をテキストに「短句」についての講義をして頂き、『誹風 柳多留』と一脈通じるところがありながら、『誹諧 武玉川』には「短句」の独自の「詩情」があると教えて頂きました。この時,教えていただいた「短句」が「石の地蔵の清い唇」であり、「白い所は葱のふと股」でした。 |